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左折禁止ゲーム


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 夕飯の支度をしていると、携帯からメールの着信音が聞こえてきました。彼からのメールです。

『今、家の前。ちょっとだけ顔見たい』

 心臓が大きく脈打つのがわかります。

 リビングでは夫が子どもと、夢中でエイリアン物のDVDを見ていました。

 高鳴る鼓動を悟られないように、さりげなく髪を直して、決して気づくことはない夫に声をかけます。

「ちょっとゴミ出してくるね」

 軽めのゴミ袋を持って、玄関の扉を閉めると、私は駈け出しました。マンションのゴミ集積場のちょっと先、いつも彼が車から降ろしてくれる場所へ向かって。

 白いミニバンの開いた窓から、タバコを持つ彼の腕が見えます。

「どうしたの?」

 息を切らしながら窓をのぞくと、彼がうれしそうに笑っています。

「昨日と今日、顔見られなかったから、見たくなって。無理させてごめん」

 周囲を見回し、うれしさと恥ずかしさを感じながら、彼が差し出す手を握り返しました。すると、彼はぐっと手を引きよせて、私の手首にキスマークをつけます。

 私は思わず漏れそうになる声を必死で押さえ込みました。

「満足した! じゃあ帰るな」

 戸惑う私を置いて、少年のようないたずらっぽい顔をして彼は帰っていきました。

 私は小さい、赤く痺れる彼の証に指先でふれながら、車を見送っていました。

 

 彼と私は同じ職場の同じ部署で働いていました。

 彼の直属の上司が私の友人に恋をしたのが始まりで、なんとか親しくなってもらうために、食事会やカラオケなど企画し、遅くなると自宅まで送ってもらうようになりました。

 彼が車で送ってくれる時、いつからか左折禁止で家に帰るゲームを行うようになりました。じつに他愛のない遊びです。

 住宅地や山道、時には行き止まりやラブホテルの前に出ながらも、大笑いして探検しているようなドライブをするのが、私は大好きでした。

 それでも、すぐには彼と男女の仲には発展しませんでした。

 彼の子どもと私の子どもは同い年で、子煩悩な彼とは育児についての話も盛り上がりましたし、なにより話の端々から妻を愛しているんだなといつも感じていたからです。

 

 もちろん、私も夫との仲は良好でした。

 ただ、世の中の夫婦が一緒に生活する時間を経て、その夫婦だけの形を作っていくように、私と夫にも独自の取り決めがありました。

「夫婦なのだから、仮に外で何かあっても『ない』とする」というものです。

 気の多い私は、結婚前も結婚後も、外であったこと、想った人のことを夫にすべて話していました。裏切っても、結局話すことが夫に対する誠意であると思っていました。またそういった女を追いかけることを、夫が求めているとも思っていました。たいていは静かに怒られて、諭されて、許される。一回り年の離れた幼稚な私はそれに甘えていました。

 何度目かの告白に、夫は「お互いに不貞はないということが夫婦を続ける前提なんだから、別れる気がないならもう話す必要はない」と私に言いました。

 もちろん私はそのルールに賛成しました。黙っていてもいいのだと、むしろ免罪符をもらったような気分でした。

 とはいえ、左折禁止ゲームの彼との不貞を望んでいたわけではなく、単調な日々の中、ときどき楽しくドライブできればそれでよかったのです。

 

 ある夜、私と女の子の二人を彼が送ってくれることがありました。家が近かった私を先に降ろして、二人は帰って行きました。

 次の日、その子からあの後、彼が左折禁止ゲームを始めて、帰るのに時間がかかったから眠たいという話を聞いて、心がざわつきました。

 私以外にも、そんなことするんだ。当たり前と言えば当たり前です。なんの意味もないゲームですから。わかってはいても、やはり自分はどこかで特別ではないかと期待していた分、がっかりしました。べつに好きでもないし……そう思っていましたが、日を追うごとに彼の存在が苦しくなってきました。誘われても断るようになり、できるだけ彼を避けるようになってゆきました。

 

 ある日女子会のカラオケで、そんなことも忘れて歌っていると、彼からメールが来ました。

 今私が一緒にいる女の子から、今日私とカラオケに行くと聞いたこと、最近私の様子がおかしいと心配していること、今日は家族が実家に帰って暇だから何時でも送っていける、相談にのれるという旨のメールでした。

 人の気も知らないで……。なんだかムカついてきました。そこまで言うなら送ってもらおうじゃない。

 少しアルコールの入った私は、彼に返信しました。『じゃあ来てよ』と。


 夜風の冷たさに少し冷静になると後悔してきました。

 しかし、本当に来た彼の車を見て、覚悟を決めました。今夜すべてを話して、こっぱみじんに砕けよう。認めてしまおう、彼が好きだということを、それできれいさっぱり終わらせようと。

 暖かい車内に乗り込むと、いつもと違うカジュアルな彼に心が揺れて決心が鈍ります。

 それでも、彼がいつもの左折禁止ゲームを始めたのをきっかけに、私が抱えている思いをすべて打ち明けました。だから、つらいから、もう送ってもらわなくてもいいと、暗い窓の外を見ながら一気に話しました。

 彼は黙っています。長い長い時間に思えて、早く切り捨てて欲しいと思いました。
 彼は車を止めると、言いました。

「こっちを見て言えよ」

 彼の方へ顔を向けると、私が口を開く前に彼はくちびるを重ねてきました。

 彼は私に避けられて、はじめて自分の気持ちに気づいた、それでも互いに家庭があって、私は彼を避けているから、今夜断られたら終わりにしようと思っていたとキスしながら、抱きしめながら語りました。

 夢の中の出来事のようにまるで現実感のない展開に、夢でも気まぐれでもかまわないと、本気で思いました。

 夫には友人の家に泊まるとメールして、彼とそのまま、ホテルで一夜を過ごしました。

 夫からは『了解』のひとことがメールで帰ってきただけでした。

 

 その日から、彼の仕事をこっそり手伝ったり、ときどき外で会うと、夢中で愛し合ったり……。この恋は、退屈な日常に色彩を与えてくれました。仕事や家庭での活力になり、私は充実した日々を送るようになりました。

 

 しかし、それも3か月ほどで陰りを見せはじめました。
 彼は家族に秘密を持てるほど強い男ではありませんでした。
 私と秘密を持った彼は、日を重ねるごとに、目に見えて弱って行きました。常に寝不足らしく目は充血していましたし、なにより覇気のない虚ろな目でいることが多くなりました。子どもが懐かない気がする、何か異変に気づいているんじゃないか、妻の態度がよそよそしく感じる。会えば彼の弱気な言葉を聞くことになりました。

「じゃあ、会うのをやめる?」

 私は自分から黙って身を引くことが一番だとわかっていても、彼を挑発してしまいました。彼は決してうんと言わない、苦しみながらも私を愛してくれることがうれしくて、それが歪んだ喜びであるとわかっていながら……。

 弱りながらも会うことをやめない彼と、弱っていく姿を見たくないのに、別れられない私。あんなに輝いていた日々が嘘のように、関係は行き詰まってゆきました。

 

 そんな閉塞感を感じながら3か月ほど経ったある日、季節外れの異動が彼に発令されました。おそらく2年ほどで帰ってくるだろう現場への異動でした。異動先は新幹線で一駅の距離、本社に月イチで顔を出すこともわかっていました。だから会いづらくなるけれど、少しゆっくり関係を続けてゆくいい機会だと私は思っていました。

 

 異動を1週間後に控えた彼と、いつものように私の自宅までドライブデートをしていました。いつもより心なしか明るい彼は、やはり左折禁止ゲームを行います。私はこれからのことを、口に出して確認することはしませんでした。

 久しぶりに肩の力の抜けた余裕のある彼の姿に、湧き立つ不安を押し込めました。

 いつものようにぐるぐると彷徨い、気がつくと山の麓にある、キャンプ場の駐車場に車を停めていました。平日のせいか、車は2、3台止まっているだけで、私たちは広い駐車場の一番奥まった場所にいました。

 なんということもない話をしながら、ときどきふっと沈黙が流れます。

 軽くキスして、またおしゃべりをして……。そんなことを繰り返していました。

 私は彼の大きな手に触れながら、しばらく会えないという現実を、急に実感してきました。

「やっぱり、離れたくない」

 彼の大きな手をぎゅっと握りながらつぶやきます。彼は私をきつく抱きしめると、無言でくちびるを重ねてきました。さっきより深く激しいキスに体の芯が熱くなり、私は思わず彼の下腹部にそっと手を置きました。

「こんなところで……ダメだよ」

 形だけの抵抗を見せる彼の下腹部へ顔を近づけます。ズボンのファスナーを下ろすと、グレーのブリーフは濡れて変色していました。少し手を添えるだけで、彼のいきり立つものはプルンと姿を現し、と同時に愛しいオスの匂いがしました。

 彼の反応しているものに、私の不安は少しだけ薄くなっていく気がしました。

 

 やさしく舌先で、形をなぞるように愛撫し、彼の荒い息使いを楽しみました。

「咥えてもいい?」

 わざと断るはずのない卑猥な質問をすると、彼はYESの代わりに大きなため息をつきました。私は自分の唾液で濡れているものを口に含むと、緩急をつけて頭を動かし始めました。

 

 車内にふしだらな、湿った音が響きました。車の中で、こんな姿を誰かに見られるかもしれないスリルと、彼を愛おしいと思う心が私の体から恥ずかしい液をあふれさせます。

 そのまま彼を果てさせようと思っていたのに、私は我慢できなくなってきました。もっとこの不安を消し去るほどの確証がほしい。

「上、乗ってもいい?」

 彼が体をずらしたのを見て、私はヒールを脱ぎました。彼の体に跨って腰を落とすと、すでに大きくなった部分は、抵抗なくぬるりと体にすべりこみます。いつも通りの熱い快感がやってくるはずでした。

 

 なのに……。たしかに体は快感を覚えるのに、感情がついてこないのです。彼と熱く硬い部分でつながっているのに、どうしたわけか、私の身体からあふれ出してくるのは、みじめで、つめたい悲しみの感情でした。突き上げられるたびに、涙とともに嗚咽とも短い悲鳴ともわからない声が漏れてしまいます。

 彼はせつなそうに見上げながら、大きな手で私の頬の涙を拭き取ります。そのまま抱きしめて舌を絡めても、いつものように彼の熱と私の熱は混ざり合うことなく、薄い膜越しに愛し合っているように感じました。

「あ、もう…」彼がせつなげな声をあげます。

「いいよ」私は快楽より、早くこの悲しみから解放されたくて答えます。動きはいっそう速くなり、彼は果ててしまいました。

 

「ごめんね、やっぱり欲しくなっちゃって……」

 私がつぶやくと彼は答えました。

「いや、俺の方こそ腰が動いてしまって……」

 この何気ない彼の受け答えで、ようやく湧いてきた悲しみの訳がわかった気がしました。

 彼はもう、私との関係を終わらせようとしていると。他人行儀なその言葉で、今日がこうして会える最後なのだと直感しました。

 

 あんなに愛し合ったのに、最高のパートナーだと言ってくれたのに……。

 とうとう我慢できずに、私は彼に聞いてしまいました。

「向こうに行っても、連絡していい?」

「……当たり前だろ」

 少しの間が、彼の嘘を確信させました。でも、もう泣きませんでした。

 私は気づかないフリをして笑っていました。

「だよね」

 苦しんだ彼は、答えを出したのです。私ではなく、家族への罪悪感からの解放を選んだ。苦しみながらも、私を愛してくれる彼はもういないのです。

 

 いつものように自宅の近くで車を降りて、ようやく私は泣くことができました。泣いて、泣いて目の奥が痛くなってもまだ涙は止まりませんでした。深夜の自宅に静かに帰り、やはりお風呂の中でそっと泣きました。布団に入っても朝まで泣き続けました。

 

 結局、異動した彼は連絡しても返信することが少なくなり、最終的には、遠く離れて思い出すこともなくなった、もう過去の人だから連絡はしないと、切られてしました。

 わかっていても、やはりつらい日々でした。それでも慌しい日常の中、1年で傷も薄れてゆきました。

 

 やっと立ち直ったと思った頃、予定より早く彼は元の部署に復帰させられました。私はまた、彼と同じフロアで、同じ部署で働くことになりました。それでももう、エレベーターで会っても会釈すらできなくなっていました。

 

 平日の夕方、仕事から帰っていつものように夕飯の準備をしていました。夫も早く帰り、子どもとDVDを見ながらソファーで二人してじゃれ合っています。その様子をキッチンからカウンター越しにぼんやり見ていると、エプロンのポケットから微かな振動を感じました。

 

 彼からのメールでした。

『家の近くにいます。顔を見て謝りたい。出て来られない?』

 くらりとめまいがしました。鼓動が速くなります。玄関の向こうに……。

 今すぐ駆け出して、彼に会いたい。

「ちょっとゴミを出してくる」

 そう声を掛けて玄関を開ければ、何度も夢想したあの時間に帰れるかもしれない。

 リビングではなにも気づかないで、夫と子どもがふざけ合っています。

 私は震える指先で、彼に返信しました。

『もういいの。ありがとう。そのまま帰って』

 やっとの思いで返信ボタンを押すと、すぐに後悔で胸が潰されそうになりました。お米を研ぎながら、ボロボロと涙が出てきます。うそよ、戻ってきて、そう送信したい衝動をぐっと奥歯を噛んで耐えました。

 

 泣いている私に気づいて、主人は目だけで「大丈夫?」と聞いてきました。夕飯の準備を続けながら、私はたまねぎをかかげて、微かに頷くのが精一杯でした。

 

 私たちのルール通り、夫はそれ以上なにも聞いてはきませんでした。夫が気づくことは決してないのです。はじめからなにもないはずなのですから……。

 

 この時はじめて、夫と決めたルールの本当の意味に気づきました。

 夫以外の人を私が好きになるのは、口で言ってもやめられないと、夫はわかっていたのだと思います。そのうえ、今までは何かあっても最後は夫に話して、ちょっと叱られて慰めてもらえば、ひとしきりの区切りと気持ちの切り替えがつきました。結局、私はそこまで夫に依存していたのです。それができない状況になって、当たり前の自立を夫が求めているのだと思いました。

 

 せめて自分がやったことの責任をキチンと持つ、自分の中で終結させるという、最低限のこともできなかった私。それに気づかせて、それでも夫婦を続けていこうと思ってくれる人。

 幼稚な私にうんざりしていた夫の真意に気づいても、やっぱりこの人が夫でよかったと思いました。この人でなければ、到底こんな私にはつきあっていられないだろうと。



報われない恋