女性に読んでほしいコラム


第85章 セクハラ

 MeTooのムーブメントとあいまって、セクハラが毎日のように報道されている。もう何年も前から、セクハラのみならず痴漢やレイプなどの「性的被害」に遭った女性たちと巡り会ってきた。なかには彼女たちがどうやったら立ち直れるのかをテーマにした作品もある。

 27年前に上梓した拙著『オープン・ハート』に登場する藤木美菜(当時28歳)は、小学校3年生のとき、学校からの帰り道に見知らぬお兄さんから声をかけられた。

 「お母さんが急病で病院に運ばれちゃって、僕が連れてくるよう頼まれたから、早く車に乗って!」。美菜は嘘だと思った。でもお兄さんの真剣な顔を見ていると、だんだん心配にもなってくる。本当だったらどうしよう。もしお母さんが死んじゃったら……。ネクタイをしたお兄さんはいかにも真面目そうで、悪い人には見えない。

 美菜が乗った途端、お兄さんはチャックを下ろし、オチンチンを出してきた。逃げようとすると、咄嗟に手をつかまれる。そしてもう一方の手で彼はオチンチンをしごきはじめた。その光景は美菜にとってショックだった。きっと自分はこのままどこかに連れていかれて殺されるんだと思った。

 「ちょっとさわって!」。怖くて体が動かない。つかまれていた手が力ずくで股間へと導かれる途中、彼が射精する。つかんでいた手の力が抜けた瞬間、美菜は車から飛び降り、ふり返りもせずひたすら走った。

 家に着くと、お母さんが夕飯の仕度をしていた。元気なお母さんを見て、美菜は少しホッとした。こうして生きて帰れたことが、なんだか不思議でもある。意を決し、すべてを打ち明けようと、台所に立つお母さんに話しかけた。

 「きょう学校から帰る途中、知らないお兄ちゃんに声をかけられた。お母さんが急病とか変なこと言ってた」。お母さんがふり返る。「そんなの絶対ついてっちゃダメよッ!」。美菜はお母さんから怒られたような気がした。だから「車に乗った」なんて、もう言えなかった。自分はいけない子なんだと思った。

 性的被害に遭ったのがとくに子どもの場合は、美菜のように自分を責めてしまうことが多い。だから、なおさら言えなくなる。大人の場合も、会社の上司や仕事関係者からのセクハラは、その後の人間関係や仕事への支障を考えて泣き寝入りしてしまう女性が多いはずだ。

 性的被害に遭ったことを誰かに打ち明けたり、Twitterで発信したりするのは、本人にとって並々ならぬ勇気のいることに違いない。言うか言うまいか、さんざん迷い、あるいは打っては消し、打っては消しのすえの決断かもしれない。

 でも、そのつらい体験を誰かに伝え、つらさも含めて事実を他者に共有してもらうことは、たとえわずかでも心の痛みを中和することになる。そしてこの中和こそが立ち直るきっかけに必ずやなる。だから、ずっと自分の中に抱えて人には言えなかったことが、MeToo運動の盛り上がりとともに言葉にできるというのはとてもよいことだと思う。

 ただし、僕はある種の物足りなさのようなものも感じている。というのは、これだけセクハラが報道されているにもかかわらず、セクハラをやるほうの人間が「なぜそうなったのか」についてはまったく言及されていないからだ。つまり、セクハラを生み出す根本的な原因には何もメスが入れられていない。

 セクハラをする人間は社会的な地位があったり、会社の中で出世していたとしても、そもそも相手の気持ちが理解できていない。それは自己中心的だとも言えるけれど、本当のところは自己への信頼がない者たちなのだと僕は思っている。言い方を換えれば、真の自己が確立していない。

 自分の中に柱が立っていないからこそ、規範や拠りどころを自分の外側に作ってしまう。たとえばそれは地位や肩書きだったり、自分が行使できる権限の大きさだったりする。地位ある人が全員そうだとは言わないが、少なくともセクハラをする人間は、外側につけた規範を自分そのものだと勘違いし、規範を通してしか他者と接することができない。

 一見、彼らは理性的にも見える。だが、地位や肩書きといった規範そのものには柔軟性がないように、彼らの思考も「かくあらねばならぬ」という頑(かたくな)な概念に縛られている。それは自由な感情表現を阻害するばかりか、他者の気持ちを素直に受け取ることすらできなくさせているのである。

 でも結局は自分に自信がない。自分も他者も信じられない。だからその裏返しとして、自分の思惑の中で相手を支配したり、有無を言わせずコントロールしようとする。こういう人々が年々増えているように僕には見える。セクハラが許されない行為であるのは言うまでもないが、セクハラをする側の心の闇が中和されない限り、やはりセクハラはなくならないと思うのである。