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女性に読んでほしいコラム


第80章 微笑みの瞑想

 初対面の人と会うとき、僕は必ず笑顔で挨拶する。意識してそうするようになったのは、たぶんうつの頃だ。とても笑う気分じゃなかったからこそ、相手より先に笑顔を向けた。面接にせよ、取材にせよ、自分の気持ちを持ち上げなければ、話す気力も体力も湧いてはこなかったからだ。

 うつから抜け出したあとも、この習慣をずっと大切にしてきた。なぜなら、微笑むというただそれだけで、自分の心に何かが芽生えていると気づいたからである。これはもう瞑想と言ってもいいんじゃないか……。微笑みに関して、誰か同じように感じている人はいないかと、あるときネットで検索してみた。

 いた。それも半世紀も前に。ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンである。ベトナムという国の背景をふまえつつ、ティク・ナット・ハンについて今回は少し書いてみたい。

 第二次世界大戦の前からベトナムはフランスの植民地だった。大戦が始まり、フランスに変わって日本が進駐。結果的に日本も大戦に負けたので、ベトナムはベトナム民主共和国として独立を宣言する(北部)。しかし、これを面白く思わないフランスが傀儡政権のベトナム国を建国してしまう(南部)。このフランスに対する独立戦争(インドシナ戦争)は8年後にフランスが負け、ついにベトナムから撤退する。

 ところが、今度はアメリカが介入してくる。なぜアメリカが……といえば、インドシナ戦争の際、北部を中国・ソ連が応援し、南部をアメリカ・イギリスが応援していた。ときは冷戦の真っ只中、勝利したのが北部だから、これによって東南アジアに共産圏が拡大していくことをアメリカは極度に恐れたのだ。アメリカを後ろ盾にした南部はベトナム国からベトナム共和国に名を変え、北と南の熾烈な戦い(ベトナム戦争)が繰り広げられることになる。というのも、途中からアメリカ軍が直接介入するわけだが、北爆に使った爆弾の総量は250万トンを超えるとも言われる(第二次世界大戦で日本に落とされた爆弾の総量は13万トン)。枯葉剤が使われたのも、この北爆においてである。

 ベトナム戦争は僕が20代から30代にかけての十数年に及んだが、テレビで見た北爆の映像は今でも覚えている。ほかにも、ナパーム弾の空襲を受け、裸で逃げてくる少女の写真や、戦火を逃れて川を渡り、岸に辿り着こうとしている母子の写真(ともにピューリッツァー賞受賞)など、ベトナム戦争の陰惨さを伝える記録を、当時はたびたび目にしたものだ。

 ティク・ナット・ハンは、1926年、ベトナム中部のフエに生まれた。16歳で出家。ベトナム戦争が始まったときが30代半ばである。このまま僧院の中で修行を続けるべきか、外に出て苦しむ人々を救済すべきか、迷ったこともあったという。けれども、彼はその両方をやってのける。北にも南にもつくことなく、平和と停戦を訴えながら……。1966年には自らアメリカを訪れ、ベトナム戦争終結の和平提案まで行なっている。その思想と行動はキング牧師にも影響を与えた。

 だが、これによって帰国を拒否され、やむなくフランスに亡命する。ベトナムにいるときから、焼け出された農民を助け、荒れ果てた村を立て直し、学校を作って子どもたちを教えてきたティク・ナット・ハンと彼の仲間たちは、戦争の当事者たち、つまり北からも南からも脅威と見なされ、繰り返し迫害を受けてきた。なかには殺された者もいるという。疲弊した仲間たちに、ティク・ナット・ハンはフランスから励ましの手紙を送りつづける。

 今回、冒頭に書いた「微笑みの瞑想」も、じつはこの手紙の中に出てくる。

 〈立っていても坐っていても、気がついたらいつでもそっと微笑んでみましょう。子どもや木の葉や壁の絵、何でもよいのです。そこにあるものを静かに見つめて微笑み、ゆっくりと三回呼吸します。微笑みながらその対象を通して自分の真実の姿を見つめます〉 ティク・ナット・ハン著『〈気づき〉の奇跡』(池田久代訳、春秋社刊)より

 硝煙の立ち込める瓦礫の間から芽吹いた双葉のごとく、地獄のような現実の中にあってなお微笑もうと諭した彼の教えは、やがて「マインドフルネス」という名で世界中の人々に広がってゆく。