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女性に読んでほしいコラム


第79章 「今ここにいる」

 セックスをしているとき、「今ここにいる」ということが重要である。多くの人は「今ここにいない」のである。

 10年以上夫としていない一人の主婦は、かつてセフレとした“いいセックス”が忘れられず、「ザ・面接」にやってきた。オナニーではマッサージもののビデオが好きだそうで、彼女のリクエストに応えて銀次と森林が2人がかりでオイルマッサージを施すことになる。

 ちょっと贅沢な前戯が終わって、彼女は森林とセックスする。森林らしいパワフルなセックス。彼女も感じている。終わって「満足したか?」と訊けば、「まだできる!」と彼女。すかさず森林が「僕、できない」。それでもにじり寄ってくる彼女に、彼は「いやいや、もう……。もう終わりですよ、閉店です!」。エキストラたちがドッと沸く。彼女がトップバッターということもあり、自分が行こうとしている銀次に、僕は「行くな」と目配せした。

 なぜ彼女は満足しなかったのだろうか? 森林のセックスが短かったわけではない。刺激だって充分すぎるほどあっただろう。彼女の中にはいまだ忘れられない“いいセックス”があり、見てきたマッサージもののビデオのごとく「ああされたい」「こうされたい」という思いが色濃く存在している。彼女の意識は過去のセックスやイメージの中にあって「今ここにいない」から目の前の相手と真に向き合うことなく、ゆえに満たされないのである。

 ここまでずっと見ていたエキストラたちに、忌憚のない感想を訊いてみた。「上に乗ったときの腰づかいが凄かった」「恥じらいなくセックスしていて“ザ・痴女”って感じだなって思いました」等々、彼女が色っぽくてイヤラシかったことを評価する声はあがるものの、「心を打たれた」「ぬくもりが伝わってきた」といった類の感想はついぞ出てこなかった。

 2番目にやってきた20歳の女の子は、アダルトビデオにデビューしてから3カ月足らずでもう30本の作品に出ていると言う。現場のセックスはどうかと隊長に問われると「カットが掛かるから、あんまり……」と言葉を濁す。監督の「カット」の声でセックスが中断されてしまうので、あんまり気持ちいいとは言えないということだろう。

 この子が、結果として「今にいて」ウルフと向き合うことになる。キスをしながら、やっとマイクが拾えるくらいの小さな声でウルフが「好きになっちゃいそう」とささやけば、「もう好き」と彼女が応じる。いよいよセックスが始まり、正常位で互いに見つめ合ったまま、彼女は何度もウルフに「好き!」と思いを伝える。そして「ねぇ、『好き』って言って!」と請い、それに応えて「好きっ!」と気持ちを入れたウルフは、その後ものの数秒でイッている。

 1人目のときとは打って変わって、見ていたエキストラたちは誰も一言も発しない。みんなそれぞれに何かを感じているのだ。セックスが終わっても、抱き合ったままふたりが唇を求め合う音だけが、静まり返った部屋に響いている。

 「どうしたの? みんな黙ってしまったな」と僕がカメラを向けると、ひとりのエキストラが「なげーな」と初めて声をあげた。終わってなおイチャイチャしている時間が長いと言っているのだ。ことさらおどけて言い放ったその表情からは、動揺している自分を気取られまいとする素顔が透けて見えたように思えた。

 言われたウルフが「愛は長いんですよ!」と切り返す。抱き合っている女の子のほうは「セックスっていいなと初めてちゃんと思ったかもしれないです。気持ちよくなることが好きだったけど、それはべつにオナニーでもよかったわけで、相手の人がいるっていいなと初めて思った」と言った。

 もうひとりの担当面接官である卓にカメラをふりながら、「この人の立場はどうなるの?」と迫ってみたが、彼女は最後までウルフから離れなかった。もう満たされたから、次を求める必要がないのだ。

 エピソードが長くなったが、2人の女の子の違いは、冒頭にも書いたように「今ここにいた」か、「いなかった」かである。「今ここにいない」と、セックスに限らず、起きている大切なものを取り逃がしてしまう。さらには取り逃がしたことにすら気づかないのだ。では、どうしたら人は「今ここにいられる」のだろうか?

 「サマタ瞑想」は格好のレッスンになるだろう。なぜならば、呼吸を意識しながら「今ここに心を置く」ことこそがサマタ瞑想の要諦だからである。

 スリランカで上座部仏教の僧侶として修行している友人と再会した際、瞑想について彼はこんな話をしてくれた。

 瞑想をしていると、いろいろな雑念が湧いてくる。たとえば、体のどこかがかゆくなるかもしれない。そんなとき彼は「かゆみ」と心の中で言葉にし、「戻ります」と言って、ふたたび呼吸を意識するのだという。

 「かゆい」と言えばその主語は「私」だが、「かゆみ」と言い換えることで「私」と切り離されるのだろう。もし足がしびれたなら「しびれ」。過去の思いが湧き上がってきたら「あ、過去に行ってる」と客体化し、そこに感情移入しない。ただ雑念に気づくだけでいい。そして「戻ります」と言って「今ここに」戻ってくる。

 とはいえ、雑念は払っても払っても湧いてくる。しかし、見方を変えれば「今ここにいよう」とするからこそ湧いてくるとも言える。何かに心が囚われていて、文字どおり“心ここにあらず”だったら、かゆみもしびれも感じないし、その他の感情が湧き出る余地すらない。だから雑念が湧いてもOKなのである。その都度、雑念に気づき、「戻ります」と戻ればいいのだ。これをくり返していくうちに「今ここにいる」時間はだんだん増えてくるに違いない。やがては「今ここにいられる」ようになるはずである。

 「今ここにいて」こそ、人は人と心を通わすことができる。