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女性に読んでほしいコラム


第67章 性の行き着く先

 「ザ・面接」には、看護師や介護士をしている女性がよくやってくる。彼女たちの職場の話はエロい。たとえば、いい歳をしたおじいさんが股間をさわりに来たり、自分のイチモツを握らせようとしたり……。世の中には「性に定年はない」と見る向きもあるが、僕は少々違った思いを抱く。

 片や、若いのにセックスしていない夫婦は多い。セックスレスかどうかの境界線は1カ月とされている。病気など特別な事情がないのに、それ以上していないとセックスレスであると。けれども、たとえ1カ月以上していなくても、セックスレスじゃないケースもあり得ると思うのである。むろん病気とかではない。それは「セックス卒業」だ。

 「セックスレス」と「セックス卒業」。どちらもセックスしていないのは同じなのだが、では何が違うのか? 簡単に言うと、夫婦のどちらか(あるいは両方)がセックスのないことに対して「不満」を持っているかどうかがポイントになる。

 たとえば「妻がさせてくれない」とか「夫が抱いてくれない」というのは、一方がしたいにもかかわらず、相手が拒んでいるのだから、これはセックスレスである。だが、両方ともセックスしたいわけではなく、さりとて相手を妻や夫以外に求めることもなく、夫婦仲がうまくいっているのなら、それはセックス卒業ではないだろうか。

 「女(の性欲)は灰になるまで」という言葉がある。まさに「性に定年はない」と同じ意味だ。かつて僕は、それはそうだろうと思っていた。でも今は、やはり卒業していない人なんだろうなぁと思う。だからといって、「一生、女であること」、同じく「一生、男であること」を否定しているわけではない。

 本能が「肉体的な快」を追いかけている間は、まだまだ成熟していないのだ。若いころ社会性に縛られ、自分を抑圧していれば、性の本当の歓びを体験することはできない。すると、性の欲望はその人の中でずっと燻(くすぶ)りつづけることになる。80になっても、90になっても。

 性を存分に謳歌し、目合(まぐわい)を通してパートナーと真につながっていれば、「求めること」から「与えて相手の歓びを受け取ること」にシフトしていく。お互いがたまたまそういう雰囲気になればセックスすることもあるかもしれないが、少なくとも一方的に「肉体的な快」を追い求めることはない。

 たとえば、夫婦が同じ趣味を共有できればそれに越したことはないけれど、かりに別々の趣味であったとしても、それに熱中したり、そこで語り合う友がいたりと、お互いに快が取れていれば、心は満たされる。満たされた者同士が同じ家でともに暮らしているだけでも、つながり感は得られるのだ。ありのままの自分でパートナーと向き合えるし、そこにシコリは存在しない。

 人間は快を求める生き物である。快があるから生かされていると言ってもいい。しかし、多面的なつながりを実感できたとき、セックス(肉体的な快)はもはや必要なくなっている。だからといって、セックスレスとはある意味真逆の状態であり、それこそが性の成熟した姿ではないかと僕には思えるのである。